北条かやの批判など

北条かやについて書くと、大半の人は賛同してくれるのだけれど、わずかな人は「まだやってるのか」「しつこい」「どっちもどっち」という言葉を投げかけてくる。それは非常に辛く、心を削り取られる。「もう相手にしない方がいい」ともよく言われる。

でも、私が相手にしないといけないのだ。なぜなら、彼女は「反論できない人を悪く言う」から。反論できる私が反論しないといけない。私が例えば死んだりして反論できなくなれば、彼女は喜んで私の批判や愚弄を始めるだろう。そういう人なのだ。

こんな記事をいちばん上にあげておきたくないので、できるだけ早いうちに次の記事を書こう、と自分に向けてせっついておく。

北条かやが新刊を出すという。2016年にインターネット上で私と雨宮まみさんによって厳しく批判され、言葉で対抗せずに自分の命を粗末に扱ったことで場を凌いだ(らしい)彼女が、「インターネットで死ぬということ」という、また「死」という言葉を安易に扱った本を出すらしい。

おそらく彼女は「安易ではない。本当に自殺しようと思っていた。本気だった」などと見当違いな反論をしそうだが、本当に死ぬ気かどうかなんてことは本質的には関係がない。まず、命を引き替えに人の言葉を封じようとしたことが問題なのだ。突然「死んでお詫びします」と言い出すのは、「それ以上言うとコイツを殺すぞ」という脅迫と同じである。

そもそも、タイトルの「ネットで死」ぬの意味するところは何か。自分がネット上で批判されて自殺未遂をしたことなのか。彼女は今ずいぶんと旺盛にブログを更新し、ツイッターを更新し、活力がみなぎっているように見えるし、そもそも自殺未遂をした直後もツイッターやブログからそう長く姿を消したわけでもなかったが、いつどこでどう「ネットで死」んだのか。現実でも、ネット上でも、ものすごく力強く生きている。

本の内容は2016年に起こった炎上騒動や自殺未遂のことだとはっきり書いてあるので、確実に雨宮まみさんの存在が関わってくる話だけど、本の中に雨宮まみさんや私の名前はおそらく、高い確率で、出てこないだろう(出てきたならそれはそれで改めて批判する)。もともと彼女は雨宮まみさんや私を「尊敬している」とすら言っていたはずだが、騒動以降はブログに名前すら一切出していないからだ。おそらくこの調子で、本の中でも直接的には触れないだろう。それでいて、本のタイトルは本当に亡くなった方を愚弄するかのように「インターネットで死ぬということ」なのである。

インターネットでも現実でも死んでいない人が、「のちに亡くなった人に、炎上させられて辛かったという話」を、「インターネットで死ぬということ」というタイトルで本にしているのである。

このタイトルは、単に「死ぬ」というショッキングな単語を使いたかっただけとしか思えない。彼女の自殺未遂といっしょである。ショッキングなことを言う以外にはもう進む道がないのだ。

そして、おそらく編集者は、「死ぬ」という単語をタイトルに使うことによって、実際に亡くなった人の存在を意図的に少しほのめかそうとしている。北条かやどころではなく人を愚弄しているが、それについてはややこしくなるのでここでは触れない。少なくとも私はイーストプレス及び編集者・畑祐介とは今後一切関わらないように気をつけたいと思うが。

(それと、ヒット作である「病院で死ぬということ」のパロディにしたかったというのはあるだろう。彼女の作品名はほぼすべてがパロディ、悪く言えばパクリで、オリジナリティがない)

もしかしたら、このタイトルが亡くなった人にとって愚弄となる(控えめに言っても、デリカシーがない)ということを、彼女は本気で分からないのかもしれない。だとすると、もう、これは一種の病気だとしか思えない。

だから私は彼女を、なるべく病気の人だと思うことにした。

1つ、彼女が「死」や「命」をきわめて軽いものだと思っていて、その価値観が世間とずれているということにすら気づいていない、ということの証明をみつけてしまったので、リンクを貼ります。

ameblo.jp

北条かや「クリスマスは電通記念日でいいよもう」

クリスマスが電通記念日、とはどういう意味なのか。「電通 クリスマス」で、多くの人はもう分かると思いますが、分からない方はこの2つの単語で検索してみてください。いちばん上に来るニュース(2017年3月現在)を指していると思われます。私もこのブログ記事には目を疑いましたが、この記事が2016年11月であり、「電通/クリスマス」が指す事件が世間で話題になっていたのがちょうどその頃なので、それ以外にはちょっと考えづらいでしょう。

あんな悲劇的な事件をネタにして、クリスマスを「電通記念日」などとブログに平然と書いてしまう。

この人にまともな議論が通じるわけがなかったのだ。

でも、まだ反論できる私は、今後も彼女が病気であろうと何であろうと、許せないことをしたときにはきちんと批判しつづけます。しつこいといわれようと、やめません。文筆で食っている人間ですから、文筆でやりつづけます。別に会ってもいいと思っていますが、彼女は私に限っては「会ったら分かってもらえる」などという甘えた言葉は言えないでしょう。彼女のことを批判していた人で「会ってみたら考えが変わった」なんて人は今まで実際にいたのかどうか。

まだほかにもたくさん書きたいことがあったけど、あまりに長くなりそうなのでとりあえずこれだけです。

【追記】この本を出す前にすでに北条氏は「インターネットで死ぬということ」の記事をwithnewsで書いており、それも私はもちろん読んでいるが、そのときはわざわざ批判しなかった。内容がいつもどおり、自分がなぜ批判されたかをすべて棚に上げ、批判に対する反論もなく「私はひどい目にあった」と繰り返すだけで、いちいち言及するにはあまりに幼稚な文章だったからである。誰か本当に死んだわけでもなかったし。

しかしその後、雨宮さんが実際に亡くなってしまった(このことと北条氏は一切関係がないが)というのに、全く同じタイトルで本を出すというので耳を疑った。おそらく同内容だろうし、それはあまりにもデリカシーがなく愚弄だ、と私は言っているのであり、雨宮さんが亡くなる前にもう「インターネットで〜」の記事はあったのだ、とする擁護は意味がない。むしろこのタイミングで書籍化するモラルのなさを指摘している。