小学生残酷物語

nomuch2008-08-13

キモい話にたくさん☆をもらえてうれし恥ずかしいです。ああよかった。でも、☆をつけてくれた人がいる一方で、まちがってもわたしに会うのだけはやめようとおもった人がその倍いるでしょうね。まあいいんすけどね。
あ、あと、「十三駅」ね! べつに知ってましたけどー! 十三ファンダンゴでしょ? ちょっと忘れてただけですけどー! 佐藤君はー、女子にそういうのいちいち言うのとかって、やめてほしいとおもいます!(すいません。教えてくれてありがとございます。てゆーか関西圏からメール来すぎです。びっくり)
ほかにも「企画旅」はけっこうやっていて、前にチラリと書いた、中2のときの「美術資料集に載っていた風景さがし」(たぶん初めての企画旅で、たぶんいちばん意味不明な企画)とか、高2くらいのときの「週に1本しかない路線バスに何としても乗る」とか、いろいろあるんですけど、そういうのも気が向いたときに小出しにします。しかし、書いてるときは調子にのってるんですけど、けっこう書いたあとから恥ずかしさがこみあげるから書かないほうがいいのかもしれないよね。
そんなかんじで、なんか思い出づいちゃってるので、思い出話をまた書いてもいいですか。いいとおもいます。ここはにっきだったはずなんだけど。まあいいです。


高校野球を見るのはけっこう好きなんですよ。それでおもいだしたんですけど。
わたしはピッチャーだったんだ。小学校のとき。すごいよね。考えられんよね。
小学校では、夏に球技大会というのがあったんです。強制で、男子はソフトボール、女子はドッジボールをやらされた。「やらされた」と書いてある時点で分かるとおり、わたしはもういやでいやでしょうがなかった。体育嫌いだもん。そのうえ、ソフトボールですよ。ドッジだったら逃げてりゃすむけど、ソフトはそうはいかないんだよ。
大会には、4年生以上が強制参加でした。地区ごとにチームを組まされます。わたしはKノ台という地区にいたのでKノ台チームだったのだが、Kノ台の子ども人口はけっこう多かった。子どもが多いところは、実力順にAチームとBチームに分けられます。要は、Aは本気で勝ちに行くチーム。Bは、我が子を試合に出してやろうという(たいへんに迷惑きわまりない、お節介ということばではとても済まされない)親心・教師心の産物。わたしは当然ながら、Kノ台Bチームでした。
小学生当時を思い出していただければ分かるとおもうんですけど、だいたい、スポーツの得意な子(得意でないとしても、少なくとも体育が好きな子)と苦手な子(運動神経がないゆえに、体育が心底きらいな子)ってはっきり分かれてるじゃん。Kノ台にはよりによって生粋の体育ぎらいが多かったので、AチームとBチームは誰もが納得する見えないラインで見事に分かれる感じになった。私もふくめ、Bチームはみんな実に順当にBに入ったメンバーでした。みんなやる気もないから、BからAへ昇格することなんてほとんどない。
4,5年生のときは、まだよかった。夏の土日をいやないやな練習に当てられたりしても、わたしはBチームのなかのさらに補欠なので、大会当日の試合に出ることはなかったんです。テントの下で、氷水で冷やした地元のトマトやきゅうり(超うまいんだよこれが)を食べてポカリ飲んで休んでりゃよかったんだ。しかし6年生になるとさすがにそうもいかない。あいかわらずBチームなのですが、6年生ともなるとさすがにBの中ではうまい方になってしまう。どうしても先発メンバーになってしまうのです。
この大会の不条理なところは、たとえAチームとBチームに分かれていようと、全チームが平等にトーナメント戦に出るということである。Kノ台Bチームとほかの地区のAチームは、ふつうに一回戦で対戦するのです。
そんなわけで、わたしたちKノ台Bチーム(全員泣きそうなきもちでいやいや試合に出ている)は、よりによって一回戦の相手がO団地のAチームでした。
スポーツ万能で背もでかい田村くん率いるO団地Aチームに対し、Kノ台Bチームは、メンバーのひとりもフライが捕れない。理由は、高いところから落ちてくるボールが怖いからです。そしてサードからファーストという長い距離を投げる腕力はだれにもない。いや仮にセカンドから投げても、ファーストがきちんとボールを捕る確率がかなり低い。つまり、ボールが前に飛んだ時点でほぼヒットは確定です。基本的にみんなボールが怖い。当たったら痛いから。いくつかあるBチームの中でも、群を抜いて弱いチームだったとおもいます。
そんな我がKノ台Bチームの先発は、ちょっと太ったしのぶくん(当時の親友)でした。わたし(ガリガリ。当時体重20kg台)はショートをやっていた気がする。キャッチャーはデブの5年生、橘くん。彼は1年生のときにおしっこをもらして大声で泣きながらガニマタで歩き、「おしっこもらしちゃったあ゛あ゛あ゛あ゛」と自らの失態を大アピールしながら帰ってきたことで有名です。たぶん、太ってたからキャッチャーにさせられたんだとおもう。橘くんの捕球率もかなり低いのですが、そんなこといちいちやってたら試合が終わらないので、橘くんの後逸についてはノーカン(小学生用語。ノーカウントのこと)となりました。
たちあがり、もうよく覚えていませんがとりあえずしのぶくんはノーアウトで7点取られた。内野に飛んだ時点でヒット確定だというのに、外野はフライが捕れないどころか速いゴロも怖くて捕れない4,5年生なので、外野に行ったら全部ホームランになってしまう。しかたがないので、「外野に行ったら二塁打」という暗黙のルールができました。
7点とられた時点で、監督(だれかのお父さん)が、わたしにピッチャー交代を告げた。おそろしいことに、体育が2のわたしがそのチームで2番目くらいにうまいということだったのです。わたしの球のいいところは、「どうにかキャッチャーまで届いてストライクゾーンには入る」ということでした。つまり、しのぶくんとわたし以外が投げたら、フォアボールしか出ない可能性があった。
そしてわたしは泣きそうになりながら24点取られました。いったいこんな状況でどうやってスリーアウト取ったのかは覚えてないけど、O団地Aチームもさすがに疲れたのかもしれない。
1回裏、31-0で迎えたKノ台Bチームの攻撃は三者三振。ボールがバットにかすりもせず一瞬で終わった。特別ルールにより、1回コールドとなりました。ちなみにO団地Aチームはそのあと優勝しました。
わたしはそれ以来バットなんて持ちたくない。フライが捕れる人はマジでリスペクト。
でも高校のときもソフトボールやらされた。


しゃしん:だからこの藪にかこまれた八木蒔駅はほんとうにほんとうによすぎて惜しまれるです