ながいにっき

いろいろ書きたいことあるんだけどうちに来ると忘れちゃいます。
最近は弱音王です。呼吸のように弱音を吐いております。
べつに書くこともないなあと思いながら何か書いてみようか。
私があんまり本を買わない理由が分かった。本棚がないからだ。CDも棚が埋まってもう入らないけど、CDはあんまりスペースを取らないのでついつい許してしまうんです。
ボウズにして、なんと早2か月が経過。だいぶ伸びて来てしまい、いまはベリーショートといったところでしょうか。微妙。なんか微妙。かといってボウズアゲイン!とは思わない。どうにも髪型がおちつかない。
4年ぶりにピアス穴を増加させてみようかという計画もあります。
書くことがなくなった。
今日は、夜にいちのえさんとお久しぶりに会って、壮大な海外旅行の計画をモヤッと立てる。壮大というのは期間が長いというわけではなく、行くところが私にとって夢いっぱいな場所だということです。来年実行できたらいいな。そのためには、来年くらいまでは今の仕事でいられたほうがいいな。OLになってたらそんなに休みも取れませんものね。
小樽に住みたいことについて書いちゃおうか。
そもそも私は東京に好かれている感じがしません。
東京は確かにおもしろい。いろんなお店があるしいろんな人に会えるし、いろんなイベントを見ることができるし、いろんな映画もやってるし、ただ、わたしはそこで大きな経験をするたびに、ふと、私はここにいるほどの人ではないな、という思いにとらわれる。私にとってここは思い出として終えておくべきところだと思う。その思いは雪だるま式にふくらむ。
人間は自然に帰るべきだとか、そういうのはあんまりおもわない。むしろ、東京をはじめとした都会というものはこのうえなく人間が住みやすいように作られているのであるから、東京に住める人はなるたけ東京にいたほうがその人のためだと思います。
それとは別に、少なくとも私は東京に住める人ではない、と思っているのです。
たとえば東京にいると、うっかり芸能人を見たりする。あ、芸能人だーと思う。
それは非常におそろしいことです。おそろしいという感覚をなくしてはいけない。夢の中から戻れなくなる感。テレビの中に引きずりこまれてしまうのだ。それはもはや比喩ではないのです。テレビは空想の産物でなければならない。夢でなければいけない。芸能人に会ったら狂喜していい。
だからわたしはそういう世界を遠くおいておくために、東京から離れなければいけないと思うんです。
離れるならどこかと考えたとき、ただ好きな場所という理由だけでは根が浅すぎて倒れてしまうように思うので、縁があるゆえに不可抗力で吸い寄せられる場所であってほしいと思います。それが、両親の生まれた場所である小樽です。(ちょっと前は伊具(宮城)もいいと思っていたのですが、やっぱり小樽の、良くも悪くも泥深い感じと縁の強さがちょうどよいです)
仕事はどうするの? といわれても、それはこっちがききたいです。そんなの東京にいてもどうするのって思います。死にそうになったら、そのときどきで都合に応じてどうにかやっていったり、やっていけなかったりするだけだとおもいます。たぶん誰でもそんなものじゃないかと。
またここでひとつ懸念となるのは、もし小樽に行ってしまってから、やっぱり東京に戻りたいと思ったらどうするか? ということです。「もし」と言ったものの、おそらくこれは必然だと思います。東京のほうが何でも便利だし、友だちもいるし、仕事もあるし、絶対にそう思うよね。
そしたら、戻ってきたらいいよ。ね。
いづらいけど生きやすい場所と、いごこちいいけど生きにくい場所と、どっちを選ぶかという話です。
まあそんなこといいながらも当分は和子さんを気にしてしまうので、和子さんとの交流が続くうちはここにいることになるんだろうな。


オーイシさん。あの企画を、そういう見方じゃなくやってたってことが逆に衝撃ですよ!! めっちゃ腐女子向けだと思ってしまった……。


しゃしん:小樽市街。この山を越えるとわたしの両親が生まれ育った小さな町がある